ボランティア活動等

2016.5.22~25 祖父江チーム熊本地震活動報告

 今回の現地支援活動は 熊本県鹿北町在住の真宗大谷派僧侶・長隆寺住職 秋吉正道氏(以下、秋吉氏)の先導の元、行われました。秋吉氏の御寺坊は地盤が岩盤質の土地柄故、震災による揺れの大きさは震度6強を観測しながらも、被害の程度は比較的軽微であったため、震災直後から各地の被害状況の把握と支援活動を続けてこられました。これまで、現地への支援物資や義援金の送付をしながら、現地の様子の把握に努めてきました。その中で、とにかくなるべく早い段階で現地へ赴き、現地の現状を見聞きし、これからも続く支援活動の方策と道筋を模索することが、必要との互いの考えに至り、今回の訪熊の運びとなりました。名古屋教区の宗祖750回忌法要期間と止まない余震が重なり、現地へ赴くのが遅くなってしまったことは否めませんが、今回の機会に現地へ赴く事が出来たことは、今後にとって大きな意味を持つことと確信しております。

現地での支援及び視察は、2016522日から同月24日の日程で、同行者は でらボラNAGOYA会員・竜沢悟氏 報告者の友人である東京教区から大谷派僧侶・八反田雄一郎氏 ネパールカトマンズ地震支援活動でもお世話になった山陽教区大谷派僧侶・勝間靖氏 が22日に長隆寺集合。名古屋教区児童教化連盟所属大谷派僧侶・加藤浄恵氏が23日午前に大津町にて合流して下さり、全員で5名の参加でした。

22日は夜半の到着後に長隆寺にて23日に行う活動の打ち合わせが持たれました。秋吉氏の提案により、大津町の被災寺院への訪問を皮切りに、立野地区にある現地民間ボランティア支援団体「南阿蘇よみがえり」の拠点での聞き取り、南阿蘇村一帯を可能な限り視察し、「よみがえり南阿蘇」代表との面会・現状と今後の支援活動への相談と話し合いを持つという計画を立てました。

23日は朝9時頃、支援物資を積み込み、大津町へ出発し、被災した真宗大谷派寺院「光行寺」を訪れました。光行寺は本堂を新たにしてまだ日が浅かったそうで、遠目にはあまり被害を受けているようには見受けられなかったのですが、近くで見、本堂の中に入らせていただくと、その被害は甚大であることが知れました。本堂の土台はずれ、正面の階段にある柱は突き上げあれて、本堂本体とをつなぐ部分の臍が外れており、印象として、下から突き上げられて丈夫で広がっているという感じでした。本堂内もまわりの壁枠はずれ、入口上部の明り取りの窓も崩落していました。すでに須弥壇などは外されており、本堂としての機能は失われている状態です。御住職の保々氏との面会も可能であればと考えていましたが、丁度お参りの門徒さんがこられており、面会は叶いませんでした。お参りは、庫裏と本堂の間にある広間を使用して勤めておられました。住職のお母様にご挨拶をさせていただきました。「とにかく、これからどのようにしていったら良いのか見当がつかない」と涙ながらに悲しみと不安を語っておられました。

光行寺を後にして、大津町「道の駅」へ向かい、加藤浄恵氏と合流をしました。合流後、立野地区にある、民間のボランティア支援団体「南阿蘇よみがえり」(本部は南阿蘇村・ロハスという施設)の拠点を訪れました。現在は閉店しているうどん屋「武蔵」の店舗を借りて活動をしているそうで、道中、所々に点在する集落の屋根にはブルーシートが掛けられ、道々の墓所の墓石は殆どが倒壊していました。

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立野地区「武蔵」に到着。スタッフの下田真弓氏と面会をし、お話を伺いました。「立野地区は集落が点在しており、年配の割合が多く、住居の片付けなどに困難を抱えている。現在も水道の復旧がなされていない。都市部と違い人手がなかなか集まらない」といったお話をお聞きしました。ボランティアの参加希望があれば、事前に連絡を取り、その時々に必要とされる作業のマッチングをして下さるそうです。「武蔵」から先の道は、通行止めとなっており、先には進めませんでした。道路を挟んで反対側の道を下ったところにある立野小学校の近くまで行き、視察をしました。体育館裏の土手は崩れ、フェンスと樹木ごと滑落し、体育館の裏の壁に落ち込んでいました。最近まで避難所として使用していたそうですが、現在は閉鎖されているとのことでした。

立野地区を出て、南小国の大谷派僧侶・福島龍徳氏と面会の為、阿蘇市小里へ向かいました。合流後、内牧温泉地区へ移動。福島氏や地元の方のお話しでは、古くからの温泉街である内牧温泉は、地震の影響で、温泉の湯量が極端に減ってしまい、今後の再建の見通しが立っていないそうです。また、湯脈の変化の関係で、水圧が変わり、全く違う場所で湯が溢れるといった現象も起きており、今後、それらの湯量の分配をめぐって、住民同士の諍いになってしまわないかと危惧されていました。自身発生後から名古屋教区有志にて支援をしてきた、阿蘇・山田の真宗大谷派僧侶・湯浅信順氏が、内牧温泉地区に来られ、面会をしました。

でらボラNAGOYAはじめ、多くの方からの支援に対し、感謝の言葉を述べておられました。湯浅氏と別れ、赤水地区を経由して「南阿蘇よみがえり」代表のPIKALE氏との面会の為、下田真弓さんのお母様、下田愛子氏と合流して後、南阿蘇村 道の駅「阿蘇望の郷」へと向かいました。道中、支援センター本部「ロハス」に立ち寄り、その後、南阿蘇村の避難所で被災しながらも避難所の日常の世話をしておられるという村上氏の経営する「しゃえんぱ食堂」にて支援物資(ブルーシート)を搬入(村上氏は留守の為、軒先におかせていただきました)。南阿蘇村 道の駅「阿蘇望の郷」に到着。PIKALE氏は先約として、行政との支援方針に関する会議に出席しており、その会議が終了次第、面会との予定でしたが、長引いてしまい、残念ながら、23日中に名古屋教区に戻らなければならない参加者があるため、当方の時間切れとなってしまいました。結果、お会いすることが叶いませんでした。今後、名古屋からの支援活動希望者の受け入れなどの話を詰めさせていただきたかったのですが、後事は秋吉氏に託すこととなりました。(これらを受けて、529~31日の日程で加藤浄恵氏らが活動を予定しています。)下田愛子氏と福島氏と別れて、南阿蘇村 道の駅「阿蘇望の郷」を出発。グリーンロードを利用し、西原地区を経由して長隆寺へ帰坊しました。途中、大津町「道の駅」にて加藤浄恵氏と別れました。夕方5時頃長隆寺に到着し、竜沢氏も帰路につきました。残った参加者は秋吉氏と24日の行程を話し合い就寝。

24日、朝930分頃、長隆寺を出発。益城町津森に1030分ごろ到着し、秋吉氏の高校の同級生である奥村氏ご夫妻とお会いさせていただきました。母屋と新屋の間にある農機などを保管していた建物が被害を受け、中に保管していた米と保存用の設備を重機にて引き出す作業の最中でした。津森は報道などで目にする市街地からは郊外に当たり、山を背にした集落で、上へ上がって行く道も狭く、車両の擦れ違いにも苦労をする場面がありました。建物の倒壊なども多く見られました。家屋が比較的新しいものでも倒壊していたり、その隣の古くからの家屋は無傷であったりと様々で、断層に沿って被害が大きい事が見て取れました。

津森神宮の山の上に学校とグラウンドがあり、現在グラウンドの空き地に仮設住宅が急ピッチで建設されていました。ここも断層があり、アスファルトに大きな亀裂と段差が確認できました。津森から福原へ向かい、大谷派寺院・皆乗寺へと向かいました。被害は甚大で、本堂への階段上の屋根は垂れ下がり、正面からは破風が見えなくなっていました。突き上げが激しかったようで、正面の柱は二本とも土台から外れ、柱を渡す梁も破損し、獏鼻は外れて破魔縁に転がっていました。お寺の脇の坂道を上がって行くと、断層による亀裂があり、その脇には明治期に起こった地震の時にできた断層跡がみられました。前日伺った南阿蘇の被害地域と断層がつながっているのが見て取れました。本堂脇にある墓所の墓石は全て倒壊していました。

皆乗寺を後にして、福原から益城町市街地へ向かいました。市街地は当然の如く建物が密集しているので、被害が目に付きやすく、55日に支援活動を行った竜沢氏の報告の通り、壊滅に近い状態でした。一見、無事に建っているように見える家屋も入口には【立ち入り禁止】の赤い紙か、【要注意】の黄色の紙が貼られており、家財道具などの持ち出しの困難さが容易に想像できました。熊本市内からも近い事もあって、ボランティアなどの支援活動をする人々の数も多く目に付き、南阿蘇の各地とは復興の速度に明らかな違いが見て取れました。益城町市街からほど近い沼山津にて大谷派僧侶・蓮田善英氏と落合い、健軍を経て熊本市内に入りました。昼食を取りながら、蓮田氏から、被災状況や熊本教区の状況・本山との支援方針の経過などをお聞きしました。「被災寺院の御依頼割当の減免に対する問題点や、共済の拠出の仕方など問題点が多く、困惑している」と仰っておられました。宗門のこれからの支援活動の姿勢など、まだまだ課題が山積していると強く感じました。昼食の後、熊本城の被災状況を視察しました。石垣の崩落や天守閣などの建造物の被害は凄まじく、施設案内のボランティア(通常は熊本城の歴史などを観光局に解説する)の方が、「完全な復元をするために必要な時間は計り知れなく、少なくとも自身が生きている間はこのままの姿で、石垣の石ひとつ動かせないだろう」と、語っておられたのが印象的でした。熊本城も最近、修復が終わったばかりだったそうで、市民のみならず、「めったに足を運ばない」と言っていた秋吉氏ですら、落胆の色を隠しきれない様子でした。熊本城で蓮田氏と別れ、長隆寺へ戻り、帰路につきました。

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以上が、現地での活動の報告となります。

 

私見ではありますが、今回の現地支援視察で強く感じたことがいくつかあります。

そのうちの一つは、支援活動をするにあたって、必要な三つの条件として言われる「ひと・かね・もの」だけでは、対応し続けにくい事態が、割と早い段階でやってくるというこということです。特にこの度の震災のように、大地震が短期に二度起こり、一か月以上続く余震活動の中で、当に、刻一刻と変わり続ける状況に対して、出来うる限り的確に対応するためには、くり返しの確認と、途切れない情報の収集、それらを可能とする人的関係と相互的な信頼感、情報を基に広がって行くネットワークと、活動をマネジメントする体系の構築の必要性です。

また、秋吉氏らと話をしたことでもあり、現地に赴く前に名古屋から支援を行いながら、考えていた問いがあります。「支援をする側」が「寄り添う」という思いで行うことでも、支援を受ける側(受けざるを得ない側)にとって「寄り添っている」という感覚を持たれない場合が多々あるのではないかということです。例えば、炊き出しをする折に選ばれる献立に「カレー」や「豚汁」があります。多くの方に温かい食事を提供する際には、非常に重宝し、また栄養価や栄養の吸収の点でも優れた献立であることは間違いないのですが、もし対象者の中にアレルギーなどの問題で食べることが出来ない方があるかもしれないという可能性を持って活動を行ってきたでしょうか?その意識を持っていたとしても、その方が拒否することを許す空気を作る事に心を配って来たでしょうか?更に言えば、豚肉を食すことを禁ずる教えを宗とする教えとしていただき、生きておられる方があった場合ではどうでしょう?肉体的には食べなければいけない状況下であることを理由に、懸命に提供する「支援する側」に対して、無理な気遣いを強いてしまうことにはならないでしょうか?それまで大切に歩んできた道を曲げ、時には奪ってしまう事になりはしないでしょうか?もし、その方が「支援される側の気遣い」や「周囲との同調性」がもたらす圧力を受け入れて、その禁を犯してしまったとした時、「支援した側」への感謝の言葉とともに、その事実は、その先の生きる道に於いて、とてつもない苦しみとしてその方を責めたてるのではないでしょうか?という問いです。 非常時に於いて、逼迫した状況下で支援を受けざるを得ない人々、一人一人の「いきる」選択と「いきる」方向を奪ってしまう事にはならないでしょうか?それは、「その方」を、「その方として生きるいのち」を「殺す」ことに他ならないのではないでしょうか?「寄り添う」と言いながら相手の歩む道の幅を狭める「幅寄せ」になってしまわない様な活動の必要性を強く感じています。

 

                          報告者・祖父江志郎

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